Powered by Blogger.

今日4月21日は『カルティニの日』 ~ カルティニってどんな女性?


カルティニ(Raden Adjeng Kartini /1879-1904 享年25) は、1911年に『闇を越えて光へ』(カルティニの文通相手であったオランダ領東インド政庁教育・ 宗教・産業局長官アベンダノン(1856 - 1925) が編集)を著作したオランダ植民地文学 作家。その後、1964年には、インドネシア共和国国家独立英雄に列せられた。

20
世紀転換期、スエズ運河の開通以降、交通・通信情報・技術が国境を越え、均一に結ばれた。この時期、植民地官僚機構の拡大政策でオランダ語教育が必要となり、西欧化への転換目的で、オランダ語教育が社会貢献するとし、カルティニは「倫理政策の好例」とされた。カルティニが洋式教育を受け異文化と出会い、オランダ語とジャワ語との両言語間を往還することは、同時に、カルティニは自身とその文化を客観視できるようになり、ジャワの慣習を絶対視することなく批判した。

カルティニは生涯にわたり価値観が対立する体験を繰り返した。又、オランダ語書籍を通して、女性作家の作品や女性解放思想に共鳴した。そして、旧習に縛られたジャワ人女性 として生まれた偶然を必然に転化し、カルティニが自身が、ジャワ人女性として自尊の念をもつようになった。

カルティニはオランダが推進する改宗を批判し、信教の自由をも訴えた。カルティニは慣習による性差が進歩を妨げると批判し、その改善策として女子教育を提議。続いて、平和主義に目覚めたカルティニは、教育や保健・衛生への提案のほかに、人種・身分・ジェンダー・ 年齢による構造的な差別、とくに、子供・女性等の社会的弱者が選択の自由を奪われ、固定された階層の中で生を終える実態を訴えた。

第一次世界大戦後、ラデン・アジュン・カルティニは各種族を超克する「ブランドネーム」となった。その後、良妻賢母、フェミニズムの先駆者、民族主義の先駆者、教育家等と言われ、インドネシア史の重要事項と密接にかかわる「ラデン・アジュン・カルティニ」へ変容していった。カルティニの「個」は否定さ れ、カルティニの真意は忘却されたと言われる。

東京大学文学部・大学院人文社会系研究科

『カルティニの虚像と実像―1987年編カルティニ書簡集の研究富永 泰代』より抜粋

0 コメント

参加ユーザー

ブログ アーカイブ