29日未明、西インドネシア時間0時35分、8人の死刑囚の銃刑が執行され、13人の特殊警察が心臓を狙って引き金を引いた。
しかし、フィリピン出身の貧困家庭に育った一人の女性死刑囚メリー・ジェン・フェロソは、直前で処刑を免れた。
29日未明、中央法務事務所検事総長トニー・スポンタナ氏は、ジャカルタで記者達を前に「メリー・ジェンの処刑は延期された。」と発表した。この延期は、メリー・ジェンに新たな証言があったからだ。
フィリピンのカバナトゥアン(ヌエファエチジャ署説もあり)署に、マリア・クリスティナ・セルジオという女性が出頭したのだ。マリア・クリスティナは、インドネシアでの麻薬事件が原因で死刑宣告を受けたメリー・ジェンをインドネシアに送った本人である。
マリアが出頭したのは28日、メリー・ジェンがインドネシアで処刑執行時間表の発表を待つ数時間前だった。何故なら、メリー・ジェンが死刑になるのが怖くなったからだ。
では、メリー・ジェンとは本当はどのような人生を歩んできたのか。彼女が密輸の被害者だったというのは本当だろうか。
2000年、メリー・ジェンは16歳の若さで結婚し、2人の子供をもうけた。しかし、夫が飲酒と賭け事に現を抜かし仕事をしなかった為、離婚する。夫は2度刑務所に入っている。
メリー・ジェンは子供を抱え生活費を稼ぐ為、氷水やピサンゴレン等を売り歩いたりもしたが、家族を養っていくのは大変だった。
2009年、メリー・ジェンは中東ドバイに渡り、家政婦として働いた。しかし、働いていた間は家族に送金をしていたが、それも10ヶ月で終わった。同じ雇い主の家で働く他の労働者に、強姦されそうになったからだ。この事件のせいで、メリー・ジェンは、自己防衛した為に手に怪我を負い一ヶ月の入院生活を送ったが、この事件で受けた精神的恐怖感がトラウマとなって話すことが上手くできなくなってしまった。
2009年の終わり、メリー・ジェンは自国に帰った。
2010年4月、元夫の友人マリア・クリスティナにより、家政婦としてマレーシアで働くことを斡旋された。マレーシアで家政婦として働く為、メリー・ジェンは出発費用としてマリアにオートバイと携帯電話を売った。しかし、たった7000ペソにしかならず、航空チケットを買うには足りなかった。マリアとメリー・ジェンは口約束で、働いて得た月給の3か月分をカットすることを誓った。
2010年4月22日、メリー・ジェンはようやくマレーシアに飛び、観光ビザで入国を果たした。マリアとメリー・ジェンはホテルに泊まった。しかし、雇い主が海外に出てしまった為、すぐには仕事に就けなかった。結局、3日間ホテル滞在をした。マリアは、メリー・ジェンが着替えの服を全く持っていなかったので、古着を買ってやった。メリー・ジェンは、マリアに服を入れる鞄も買って欲しいと要求した。
2010年4月24日、メリー・ジェンはマリアに連れられて、ある駐車場で鞄を買ってくれるマリアの友人というのに会った。マリアの友人と紹介された彼らは、白い自家用車に乗っていた。その時、メリージェンは彼らの話し声を聞いていたが、英語で何を話しているか理解できなかった。彼らから鞄を受け取ったマリアが、駐車場からホテルへと持ち帰った。そのトランクはホテルに着いてからメリー・ジェンに手渡された。メリー・ジェンはその時、何故こんなに重たいのかと聞いたが、マリアに新しいトランクというのは重たいものだと説明され、車輪の付いたトランクという鞄を初めて持ったメリー・ジェンは、疑いを持つことができなかった。
メリー・ジェンは、トランクに自分の服を何の疑いも無く詰め込んだ。それから、マリアはメリー・ジェンに、インドネシアに行って自分の友人と会って欲しいと言った。一週間インドネシアに滞在したら、またマレーシアに戻って、すぐに新しい雇い主のところで仕事ができると約束したのだ。メリー・ジェンも最終的にはその話を受け入れた。
マリアの伝言は、空港に着いたらすぐに携帯のプリペイドカードを買い、最寄のホテルに行けというものだった。ホテルに入ったらマリアの友人に電話をかける事。鞄の事については何も触れなかった。マリアはメリー・ジェンに500米ドルを手渡し、インドネシアでの滞在費として使うよう言った。
しかし、2010年4月25日、ジョグジャカルタ・アディスチプト国際空港に降り立ったメリー・ジェンは、その場で逮捕される。トランクの中に2.6kgのヘロインが発見されたからだ。すぐに法的手続きも行なわれた。裁判所でメリー・ジェンには、ジョグジャカルタ特別区警察によって用意された法律相談員/法廷弁護士が付けられた。しかし、メリー・ジェンと弁護士が会ったのは、裁判の時だけだった。
取調べと裁判のプロセス中、メリー・ジェンは法律相談員が指定する英語の通訳を付けられたが、メリー・ジェン自身英語が分からず、法的過程で何を罪とされているのか全く理解できなかった。メリー・ジェンが話せるのは、英語ではなくタガログ語だったからだ。後に分かった事だが、指定された通訳は、法廷で誓約できる通訳者ではなく、ジョグジャカルタにある外国語大学の学生だったのだ。この時、メリー・ジェンは何度も自白を迫られたが、認めなかった。
最初の第一回公判で、検事は終身刑を求めたが、地方裁判所の裁判長は2010年10月11日、メリージェンに死刑を宣告した。フィリピン政府は、続く法廷に新たに法的権限者を指定した。
2011年2月10日、ジョグジャカルタ最高裁は、再審を拒否。メリー・ジェンは死刑判決のままとなった。
2011年3月31日、高等裁判所も再審を却下し、死刑を言い渡した。
2014年12月30日、ジョコウィ大統領は、大統領決議書No 31/G 2014をもって、メリー・ジェンからの恩赦請求を拒否。
2015年1月16日、弁護団は被告である30歳の母親の請求に従った外国語通訳者を立てないまま、新たな証拠を提出する為、高等裁判所に対し再審を請求した。
2015年3月25日、高等裁判所は再審要求を却下し、メリー・ジェンの死刑判決を保持した。
今回のインドネシアでの大規模な死刑執行に対し、人権擁護団体や移住者、活動家は、『彼女は人身売買の被害者である』という理由から、メリー・ジェンの死刑の中止を求めた。しかし、その声も虚しく、インドネシア政府はそれらに耳を貸さず、メリー・ジェンに対する死刑執行を行なおうとした。
しかし、最期の時を向かえ、メリージェンの死刑は結局延期とされたのだ。
via merdeka.com
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