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スカルノを生んだイダ・アユ・ニョマン・ライ・スリンベンの愛の物語

未だにしっかりと昔の様子を保っているパケットアグン村バンジャール・バレアグンにあるスリンベンの住居

ブレレン県のパケットアグン村バンジャール・バレアグンにあるイダ・アユ・ニョマン・ライ・スリンベンの住んでいた家には、昔ながらの雰囲気がそのまま残っている。

この家こそが、ジャワ島からやって来た教師ラデン・スケニとスリンベンの愛の物語の証であり、後に、歴史を刻んだインドネシア国家独立宣言をし、インドネシア共和国の初代大統領となった、第二子スカルノが生まれた生家でもあるのだ。

財団法人ブレレン・デスタワンのデワ・ニョマン・スクラワン氏は、インドネシア生誕の歴史に、バンジャール・バレアグンは切っても切り離せないものだと語った。

スケニとスリンベン夫妻

1881年に、パセック家系の末裔としてイ・ニョマン・パセックとニ・マデ・リラン夫婦の間に生まれたスリンベンの愛情の芽は、ここから生まれた。彼女はまだ若い時に、パケットアグン小学校の教員で、スリンベンの家から遠くないアパートに暮らしていたスケニと知り合った。そして、互いに愛し合うようになった。

二人の民族性、宗教、習慣は違っていたが、二人にとってそれらは問題ではなかった。やがて、スケニはスラバヤ勤務となり、その時1901年にスカルノが生まれた。「あの当時、二人は宗教、慣習、ライ・スリンベン自身が経験した日常の違いをも、勇気を持って乗り越えたと言える。これこそが、ライ・スリンベンという名のバリの血を持った一人の勇敢な女性として讃えられるものである。そして、その勇敢な女性から、“朝の光の子”と呼ばれたブンカルノ(スカルノ)が生まれ、スカルノがインドネシアを生んだのだ。」と、同氏。

両親が、違った民族性、宗教であった事が、インドネシアの国民性についてのスカルノの考え方に大きな影響を与えた。インドネシアは多民族から成り立つ国家であり、違った宗教、及び、慣習を持ち、多種でも一つでもある、いわゆる“Bhineka Tunggal Ika”と呼ばれる国民性を生んだのだ。

しかし現在まで、スリンベンとスケニがインドネシアの国家生誕の歴史に関係している事を理解している国民は、少数である。スクラワン氏は、スカルノの両親の姿を国民に知らしめる為、今後ライ・スリンベンとスケニという名の二人の愛の物語、どのようにして民族や宗教の違いを乗り越え、スカルノを生むに至ったのかを描いた劇を作り、公演する予定だと語った。


Via Tribun Bali




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