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クルンクン県クサンバの道端風景 -1939年-


クルンクン県クサンバについて、どのような印象をお持ちだろうか?天然の塩田、海岸からは、ペニダ島やレンボンガン島が望め、道端には捕れたての魚が並べられていたりする。観光では、なかなか足を運ばないクサンバだが、ここにはオランダとの戦いがあった地でもある。その歴史を紐解いていこう。

その昔、クサンバは、イダ・デワ・アグン・プトゥラ・クサンバがクルンクン王朝を治めていた時代、ここはクルンクン王朝の第二の街だった。王朝政権を支える為、イダ・デワ・アグン・プトゥラ・クサンバは、クサネガラという名の城を築城した。この城を建てた他、クサンバは、王朝の砦となり、重要な港となった。

クサンバの住民には、武器を作る匠が大勢いた。この専門職は、バンジャール・パンデで現在までずっと絶えることなく継承されている。また、クサンバの人々は、漁師や天然塩職人などで生計を立てた。

クサンバの村はかつて、クサンバの戦いという事件が起こっている。戦いは、ロンボク島アンペナンに駐在していたオランダ代理店のG.P.キングの所有する船が、プシンガハン周辺のバトゥ・ラハック港に座礁した事から始まった。その船はプシンガハンとダワンの人々によって強奪された。クルンクン王も、この船に乗船して働いていた殆どがササック族で、秩序を乱す者と見なして、彼らを殺すよう命じた。

オランダの代理店のあったクタに住んでいたデンマーク人の商人マッズ・ランジによって、ベスキにいたオランダ代表に対し、この事件が報告された。オランダ人はクルンクンの残虐な行為に強く抗議し、1843524日に交されたタワンカラン法(バリ島の王が持つ権力)排除に関する契約に反する行為と見なした。それで、ブレレン王朝に対する新たなオランダ遠征、ジャガラガ戦争は、現在のパダンバイへ向きを変え、クルンクン制圧にかかったのだ。1849年5月24日が攻撃の日として選ばれた。

クサンバの戦いは、A.Vミシェル将軍を殺したことで、クルンクンの住民にとって誇り高い戦いとなった。この将軍は、バリへのオランダ遠征の指揮者であったからだ。

また、更に歴史を遡ると、‘ドゥイ・ジェンドゥラ・タットゥア’というロンタルには、11世紀にジャワからバリ島に入り、現在のバリヒンドゥーダルマ教の土台を構築した高僧、ダンヒャン・ニラルタは、ゴアラワ寺院を目指し、途中、クサンバ海岸を通ったと書いてある。これが真実であれば、クサンバ村は西暦1138年には、既に存在していた事になる。‘ダレム・プタック・ジンガ’は、ゲルゲル王朝の王子であり、ジンバラン村を構築したダレム・プティーの息子であることからも分かる。

クサンバは、深い歴史のある場所だ。このような知識を持って、改めて、クサンバに足を踏み入れ、眺めてみてはいかがだろうか。違ったクサンバが観えるかもしれない。


via Sejarah Bali



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