バリの芸術に影響を与えたウォルター・スピースの記念碑 -1953-
ウォルター・スピースは、画家であり、造形家であり、音楽家でもあった。彼は、ジャワとバリの芸術の現代化の背後にあった人物である。
スピースは、モスクワに長く滞在したドイツの裕福な商家の子供として生まれた。若いときから、音楽芸術、絵画、造形が大好きだった。
1923年、彼はジャワ島を訪れ、ジョグジャカルタに初めて滞在した。その後、1927年にバリ島のウブドに移住した。そして、ここで彼の夢に出会い、死ぬまでここで暮らしたのだ。
その当時のウブドの王、チョコルダ・グデ・アグン・スカワティに可愛がられ、その保護の下、スピースは地元の沢山の芸術家達と知り合い、バリの民族芸術の影響を大いに受けた。バリの舞踊でも、彼は地元の芸術家であるリンバックと協力し、バリ芸能で人気のあるケチャックダンスの舞踊劇の元を創った。
彼は、広いネットワークを持ち、この誇りある島を見せるためにバリ島へ多くの友人を招待した。
しかし、第二次世界大戦は彼に不運をもたらした。ドイツ人として、彼は当時インドネシアを支配していたオランダ政府に捕らえられたのだ。1942年1月19日、彼は乗船していたヴァンインホフ号と共に沈んで亡くなった。
ウォルター・スピースのバリ伝統芸術に対する愛、そして、観光客の欲する特質に対する感性は、現在のバリ島観光にとって重要な基礎を作ったと言っても過言ではない。
その根底に宗教的儀式の要素と、神聖な特質を持つ美しい伝統芸術の『実演』は特定の場所と時があるものだが、そのような芸術の形を変え、従来のナレーションを排除することなく、それでいて観光客にも理解できるように、楽しませる方法を編み出すことによって、バリ島の観光業とそれを支える庶民の生活を維持することに貢献した。
スピースは、ウブドに在住していたオランダ出身の画家ヨハン・ルドルフ・ボネと親しかった。彼らは何年もの間、共にバリの芸術生活に大変影響を与え、彼らはバリピタマハ芸術家協会を設立した。
スピースを偲んで、ボネはウブドのチャンプアンに記念碑を建てた。
via Sejarah Bali
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